「地球にやさしく」なんてできるのかぁ? (1998/06/22)

今や外を一歩でも出歩けば、どこもかしこも「地球にやさしい」とかいうフレーズが躍るようになった。ゴミを減らそう、空気をきれいにしよう、水をきれいにしよう等々、「地球にやさし」くするための対策が掲げられている。テレビをひねっても(最近本当に「ひね」って操作するテレビってないけどね。ついでを言っちゃえば「チャンネル回す」っていうのも、昔のテレビのハナシだよね)、油をそのままキッチンの流しに捨てるなとか、ゴミはリサイクルに回せとか・・・兎にも角にも指示の多いこと。その一方で、ゴミの出ない工場作ったとか、排気を抑えた車とか、いかにもウチの製品は「地球にやさしい」んだぞってのを売りにしてる。別にこれらが悪いとは言わない。じゃんじゃん開発してもらいたい。しかし、どうしても「地球にやさしい」って触れ込みが嫌でならない。

これら、現在の「地球にやさしい」動きについては、ビートたけし氏が著書『みんな自分がわからない』(新潮文庫)の中で書いた文章に私は大賛成なので、よかったらそちらも読んでいただきたい。95年の山形大学の入試にも使われた、割と有名な文章である。氏の意見と重複するかもしれないけど、なぜ「地球にやさしい」が嫌いかを以下に説明する。ちょっと長いので、ゴミ問題とはハナシを別にして、ゴミ問題については別の機会にお話しできればと思う。

「地球にやさしい」と謳う人は、「地球が危ない」だから「危ない地球を守らなくちゃならない」だから「地球にやさしくしなきゃならない」って論理立てをする。何だか「宇宙戦艦ヤマト」みたいだ。でも地球は全然危なくも、滅びの危機でもない。少なくとも、今生きてる人間が死ぬまでは地球は存続できることくらい、地学素人の私でもわかる。では天体そのものの地球はともかく、生物が生きていく天体としての地球はどうか? 本当に「危機」なんだろうか? 確かに、生物が生きていく上では危機もしれない。しかし、人間さえ生きていなければ、こんなに汚くならなかったし、今後人間さえいなくなれば、自然の浄化作用によって、何千年、何万年かかけて、生物がのびのび生きていけるくらいに地球はきれいに戻れる。いつだったか、AC(公共広告機構)のテレビCMで「もう海はもとに戻れない」と言ってたけど、あれこそ「嘘、大げさ、紛らわしい」CMの典型で、同じく深夜にしかCMしないJARO(日本広告審査機構)にでも訴えたいくらいだ。ちなみにACをフォローしておけば、どっかの広告大賞をとったとかいう「人間の体のほとんどが水だから、水が汚れるのは人間が汚れることだ」とかいう趣旨の、CGを使ったCMは評価に値する。「あんたら死んだり病気したりしたくなかったら、水をきれいにするように努めなさい」と表現してるあたりがいい。

地球をどんどん住みにくくしてるのは、他でもない人間なのだ。人間が自らの手で住みにくくしておいて、やれ住みにくいとか言い出して、挙げ句の果てには自分たちの行動を省みず「もっと地球にやさしくしよう」なんてまるで筋違いの思い上がったことを言う、その態度が気に入らないのだ。どうしてもっと素直に「私たちは長生きしたいから、住みやすくしてくれ」とか上記ACのCMみたいに「てめーら長生きしたいんだったら、もうちょっと何とかしろ」と言えないのだろう。誰だって長生きしたいのだろう。だからこそ、金さん銀さんみたいな長生きした人を「おめでたい」とまつり立てる。その人が過去に何をしたか、ということには頓着せずに、単に長生きしたというだけでだ。(別に金さん銀さんが過去に悪いことをしたって意味じゃないですよ。) 人間そんなに偉くもないし、器用でもない。だいいち、自分と同じ種である人間にさえも、たいしてやさしくなれないような人間が、どうして地球なんてドデカいものを相手にやさしくできるんだ? そんなバカなことを、しゃーしゃーと言って評価されてるんだから、たまったもんじゃない。

結局「地球にやさしい」なんてのは、自分や自分の会社を「いい人」「いい会社」と思わせるための方便、販売戦略にしかなってないってことだ。そりゃー「いいえ、地球にやさしいなんてとんでもない、私ら長生きしたいだけです」なんて言ったら、誰もそんな身勝手な会社の商品を買おうとは思わず、何て勝手な奴らだ、と思われてオシマイである。でも実際、水がまずいと思っても、飲める水が皆無という訳ではないし、流しから油を捨てても、場所さえ選べば魚は釣れるしで、庶民感覚としては、それほど「地球が危ない」とは実感できないのが現状で、なおのこと「地球にやさしい」が単なる方便にしかなっていない。しかし最近、近くの所沢市のダイオキシン問題で、かなり人間に危機的な状況だというのが分かってくると、やれ住民運動だとかが起きる。本当は世界中で住民運動モノなんだけどね。




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